2019年3月31日日曜日

PacBioのおもひで その2

PacBio事業部で働き始める

2012年からトミーデジタルバイオロジーのパシフィックバイオサイエンス事業部で働くことになりました。新事業部なので全てが新しい。オフィスも大手町の野村ビル23階。窓からは富士山が見える(今はもう隣のビルが建ってしまって富士山は見えない)。
大手町、って来てみたらわかるんですが、東京駅すぐそばなんですね。で、周りは生命保険会社とか大手メガバンクとかの本社が並んでいる、日本経済の中心地。さらにオサレーなビルやお店が並んでいて、いかにも物価が高そうな街。ランチの相場は1,000円くらいでしょうねぇ。
と思うでしょ? でも量は多いんです。ご飯お代わり無料とか、明太子お代わり無料とか、ランチバイキングとか、1000円あれば結構お腹いっぱいになれるお店も多い。お弁当なら500円で結構な量のところもありました。

ま、ご飯事情はさておいて、私に任された仕事はとにかくPacBioのデータ解析、ITネットワーク関連のサポートをすること。特に装置のITネットワークサポートは私しかできる(できそうな)人がいなかったからです。そこで、お客さんのRS装置のところに行ってみて初めて直面した事実

「ランをスタートさせるまでの道のりがすごく長い!」

ランをスタートさせるためのソフトウェアがいくつかあって、これらが別々に開発され(たと思われ)て、インターフェースもそうだし、裏で動いている通信プロトコルやら、開けるべきポートやらその辺の情報が、書かれている仕様書によってバラバラ。。。
日本人が作ったらもうちょっと統一させるだろう、ちゃんと直してから完成させるだろう的なところが、さすがメイドインUSA、やっつけ感が半端ない!

装置に付いてくるベースコールサーバ(BladeCenterのこと)の内部も、当時は装置によってディレクトリが違ったり、ファイルのアクセス権が違ったり、っていうこともたくさんありました。その度にPacBioのITサポートやエンジニアに電話したり、Go To Meeting経由のウェブミーティングでトラブルシュートてもらったり。
でも今となって思えば、そうやって直しているうちにどんどん愛着が湧いてくるんです。一台一台に個性があるっていうか、多分、エンジニアの人たちもそう感じていたんじゃないかな?
初期のRSはそんな機械でした。




一年目でたくさん売れて、一旦落ち着く

事業部がスタートしてすぐ、私たちは数台納品しました。これらを稼働させるのが当面の仕事。
まずトミーのエンジニアとPacのエンジニアが2人3脚で装置をインストールします。これがまた大変な作業なんですが、電源が入って適当なところで私が呼ばれてネットワーク関連を繋いで、お客さんのサーバにデータが行くようにする。エンジニアがたくさんのテストを行って全て終わって装置がちゃんと動くようになったら、アプリケーション担当が最後の納品チェックテストを行う。

初期のRSは本当に、ランをスタートさせるまでがドキドキでした。私たちも、RSが不規則に出してくるエラーメッセージに慣れていなくて、どういう時にエラーになるのか分かりかねていたのです。しかも一旦エラーが出たら最後、エンジニアが修理に数日かかることもざらでした。ラン開始ボタンを押すのに祈る気持ちだったことは、今までも、この先もあまり無い経験ですね。

でも最初に買って頂いたお客さんは本当にPacBioの技術に期待していた方ばかりでしたので、私たちもそれに応えるべくできるだけスピーディーに対応していました。大変でしたが楽しい仕事でした。生まれて初めて沖縄に行ったのですが、まさかそれから年に何回も行くことになるなんて!

その後は売り上げは一旦落ち着きます。営業の観点から言うと売れた方が良いに決まってますが、この時に限っては落ち着いて良かった。サポート大変でしたから。そのうち夢にRSが出てきました。うちの台所にドーンとRSが置いてある、という夢。家にあんなのあったら邪魔! 悪夢ですよ。

2019年3月30日土曜日

PacBioのおもひで その1

本当はこのブログはもっと前に上げるつもりでした。
書き始めたのは2018年11月4日です。買収のニュースが出た5日後。
もう5ヶ月経ったんですね。もっと過ぎた感じがするけども。

私は人生の6年間、PacBioが常に関わっていたと言っても過言ではありません。あまり普通の人は経験しないようなことにも触れてきました。
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同じ内容です。

私の友人の一人、Jason Chinはこのサイトで今までのPacBioでの思い出を綴っています。一読の価値はありますので皆さんもお時間あるときにぜひどうぞ。

最初に書いた通り私も、PacBioとは人生の中で長く付き合い、多くの友人もでき、また自分のキャリアにも大きく影響したので、この買収のニュースはとてもショックでした。ショックというか、Jasonも言うように精神的に大きなインパクトを与える出来事でした。

私はもう外部の人間です。でもPacBioとの出会いとこれまでを忘れないうちに書いておこうと思います。

PacBioとの出会い

PacBioの前に、最初にNGSというものを知ったのは確か2009年頃だったと思います。まだ454やGA、SOLiDが登場したばかりです。日本では、NGSはまだ広く一般的に使われていたわけではなく、出力データの多さとシークエンスの短さから、NGSを使いこなすのは至難の技、なんて言う声も多数ありました。

当時は、ワールドフュージョンというデータ解析と海外ソフトウェアの販売をしている会社にいました。テキストマイニングのソフト(Pathway Studio / MedScanというソフト)を担当していたので、休み時間などにNGS関連の論文を集めていました。
そんな中、Single Molecule Real Timeシークエンスの論文を偶然見つけます。
小さな穴(ZMWのこと)にDNAを一本入れて、その中でDNAを合成しながら読んでいく、という当時は画期的な技術に驚き、同僚に話したことを覚えています。当時は長く読めるということより、DNA1分子を読めるということの方に興味があり、Helicosの話題も追っていました。
まさにちょうどその頃、「ショートリードの憂鬱」のブログを家で書いていました。

NGSはどれがメジャーになるのか。SolexaかSOLiDか454か、またはPacBioかHelicosか。それともIonかNanoporeか。
これまでのサンガーと比べてデータが圧倒的に多いけれども、リードが短い・あるいは長い。どうやって解析するのが正解? 
えらい先生も迷っていたと思います。若手の研究者が色々道具を作って試して、発表して、そんな日本NGS業界のエキサイティングな時期でした。

時は過ぎて2011年、東日本大震災の年です。会社から4時間かけて歩いて帰りました。
日本がどうなるかわからない非常事態に見舞われて、私も自分の人生を考えることが多くなりました。
そんな中偶然、Linked InでPacific Biosciencesが日本でFAS(Field Application Specialist)を探していることを見つけ、一生懸命英語でCV(履歴書的なやつ)を書いてアプライしたのです。今振り買って思えばウェブで探したテンプレートそのままに書いた、未熟な履歴書でした。

面接に現れたのは見るからに、ザ・アメリカン

8月の暑い日でした。面接は丸の内ホテルの喫茶店。待ち合わせ時間に現れたのはフットボール選手かと思うくらいの巨漢のアメリカ人。握手しただけで圧倒されました。
彼はFASのトップ。隣にはFSE(エンジニア)のトップ。少し遅れてアジアオフィスのトップが合流。英語面接スタート!

質問で印象的だったのは、「たくさんの候補者がいる中で、なぜ私たち(PacBio)は、あなたを採用する必要があるのか?」というもの。
つまり、私が会社に対してどのように貢献できるかを聞いているのです。ちょっと日本の会社面接では無い質問かもしれません。緊張して何を喋ったか覚えていません。

結局、日本でFASは採用せず

8月に面接したのですがなかなか返事が無く、諦めていたところ、何と、トミーデジタルバイオロジー社がPacBioの日本総代理店になるというニュースを耳にします。
え?
日本でFASを雇用するはずじゃ無かったの?
これを聞いてがっかりしていたところ、ある日、エージェントを通じて私に電話がかかってきて、
(センシティブなので中略・笑)
トミーデジタルに転職が決まったのです。